「郡上八幡にて」(1997.9.15掲載)

岐阜県郡上郡八幡町は盆踊りで有名で、この踊りは国の無形文化財にも選定されております。人口は約2万人ですが毎年8月の盆踊りシーズンになると、関西地方あたりからもかなりの観光客が盆踊りをかねて集まるようです。特に旧盆の4日間は徹夜踊りとなり、今年は9月6日が最終日でした。
私は中部電力の詩吟部(詩吟は私の長い間の趣味の一つです)の方々と9月6・7日にここに来ました。6日はあいにくの大雨に襲われましたが、熱心な人たちはずぶ濡れになっても踊っていました。私も皆と一緒に旅館で特訓を受けましたので小止みを見て会場に出、短時間でしたが「かわさき(俗称郡上節)」や「春駒」に踊り興じました。
郡上八幡は私の自宅から車」で2時間ほどの距離で、毎年1・2回はドライブする所です。ここでの葉書絵は今回初めてで、2日間で5枚描きました。肝心の郡上踊りはありませんが、出来上がったものを個々にご紹介します。なおついでにその前に描いた桑名の「七里の渡し跡」もご覧にいれます。

「郡上八幡・宗祇水(そうぎすい)」:(1997.9.6)


室町時代(文明年間・14〜16世紀)の故事によりますと、郡上領主東常縁(とうのつねより)と連歌の宗匠飯尾宗祇の古今伝授にまつわる名泉で、「白雲水」とも言われる自然の湧水です。柄杓がおいてあり飲むことができます。一口飲んで見ましたがとても澄んだ良い味で、酒の酔い覚ましにはぴったりの感じがしました。ここは江戸時代のはじめに整備され、往時の姿を今に伝えます。岐阜県史跡文化財で、全国名水百選に選ばれております。

「郡上八幡・新橋」(1997.9.6)


「長良川」の支流で八幡町の中心を流れている「吉田川」にかかっているコンクリート製の橋です。この橋は、川面からの高さ約10メートルほどの欄干から川に飛び込む事ができるとのことで地元では有名になっているようです。この絵は私達が投宿した旅館「三富久」の部屋から描いたものです。

「郡上八幡城」(1997.9.7)


この城は戦国時代末期の永禄年間(1559年)に遠藤盛数が築城以来明治2年(1869年)まで間、稲葉・井上・金森・青山の19代の城主が300年余に亘ってここに陣を構え戦いを繰り返した、歴史的にも由緒ある城です。現在の城は昭和8年(1933年)に再建されたもので、高さ17.2メーター4層5階の木造建築です。この絵は盆踊りの翌日雨上がりに城の裏手から描いたものです。右側の松の大木が印象的でした。

「郡上八幡町街並」:(1997.9.7)


郡上八幡町の中心部は「長良川」を西端にそこから「吉田川」に沿って東に(この絵では右から左へ)延び、又吉田川をはさんで南北に広がった街です。中心部の東北にある「八幡山」に「八幡城」が街を見下ろすように位置しています。この絵はその八幡城の門前で描いたものです。この街は大正8年(1919年)に焼失したそうですが、現在ではその跡は関係する碑などで知る事ができるだけです。なおこの絵の右上にある斜めの線は最近完成した「東海北陸自動車道」です。

「郡上八幡・吉田川にて」(1997.9,7)

郡上八幡の中心を流れている「吉田川」をテーマにしました。今は鮎釣りのシーズンであちこちでこの様な光景を目にしました。前日の大雨で釣りにはもってこいの日和と感じながらこの絵を描いた次第です。

「七里の渡し跡」(1997.9.4)


「七里の渡し」は桑名市の中心から東方約1.5キロにあり、旧「東海道」のうち名古屋の熱田にある「宮の渡し」を基点にした伊勢湾の海上交通路の終点です。「七里」とは「宮の渡し」からここまでの距離で約28キロですが、現在の名古屋の熱田付近から桑名のこのあたりへの最短距離は国道23号線で丁度同じ位です。「七里の渡し」にはご覧の通り「鳥居」がありますが、この「鳥居」は「伊勢神宮」への「一の鳥居」だそうです。ちょっとうがった見方かも知れませんが、「伊勢神宮」の参道の基点が殆ど三重県の北端にあった、即ち「伊勢神宮」の勢力がここまで及んでいたものと解釈できそうです。「東海道」は「徳川時代」に大名が参勤交代などで行き来した道路ですが、その一部が「伊勢神宮」の参拝道路であったと思うとこの理屈は偶然でしょうか。