「五月晴れへの回帰」(1999.8.1掲載)

今年の梅雨は例年より長く全国的にも水害に見舞われた地区が多かったようですが、先月下旬に梅雨が明けた途端急に真夏に入ってしまいました。私の絵の制作は、若干ペースが落ちているものの最初からの作品数は950枚を超えました。今回のページでは5月中にあちこち足を運んで、まだまだ涼しさが感じられる風景などを描いたものをご紹介することとしました。特に犬山市にある明治村には今年2月にも行きましたが、今回は五月晴れにも恵まれて数枚描く事が出来ました。また子供たちから妻に例年のの「母の日」のプレゼントが届きましたので掲載しました。なお明治村諸施設の説明に関して資料を提供して頂いた、博物館明治村の渡辺様に厚くお礼申し上げます。

「奥多摩・加藤さん宅にて」:(1999.5.9)

ゴールデン・ウイークが終わった直後の5月半ば、東京都西部の奥多摩地方に足を運び10枚ばかり描きました。この辺りは多摩川上流でハイキングコースとしても有名で、うっそうとした森や深い緑のなかで命の洗濯には最適の場所です。また葉書絵の題材にも事欠かきませんでした。この絵は途中休憩させて貰ったお百姓さん(?)の家での光景です。この時はおばあさんの退院を祝って親戚の人たちが酒盛り(?)をしており、通りがかった私も誘い込まれてつい2・3合ごちそうになってしまいました。帰る途中で、後から来てガードレールに食い込んでしまった親戚の人の自動車を、通りがかりの高校生と一緒になって元に戻したりなど、滑稽な場面にも遭遇し楽しい制作日和となりました。なおこの加藤さんにはもう1枚を加えてお礼を兼ねてプリントを贈りました。
「母の日のお祝い(奈美子さんより)」:(1999.5.12)

「母の日」のプレゼントが贈られるようになったのは、長男のお嫁さんが3年前(結婚後初めての「母の日」)からです。このお嫁さんは毎年イメージの異なる飾り花を贈ってくれますが、今年はこのように可愛い小熊の置物が入っていした。私たちには娘が居ないうえ妻は姑に快く接してもらえなかったので、お嫁さんを大変可愛がります。花が枯れた後この木製の入れ物は葉書差しとして利用されています。
「母の日のお祝い(良治より):(1999.5.12)

こちらは二男からのプレゼントです。これら3組の花束は1週間以上も応接間のテーブルに飾られており、その間は部屋全体が明るく快い香りが漂っていました。
「母の日のお祝い(久美子さんより)」:(1999.5.12)

この花は二男のフィアンセからのプレゼントです。本年暮れまでに私たちには二人目のお嫁さんを迎えることになっており、来年からもこのように「母の日」のプレゼントが楽しみです。しかしやはり子供たちが可愛い孫を抱いてきてくれるようになればもっと楽しみが増えるので、その時を首を長くして待っております。
「日本橋」:(1999.5.20)

東京の日本橋は日本の道路原票のある所です。以前から描くつもりでしたので、少し暑い昼間に足を運びました。この橋の周りは古くからのビジネス街で、この絵を描いた昼休み近くはサラリーマンの往来で賑わっていました。橋自体は近代的なデザインで重量感があり短いながら貫禄?も感じましたが、橋の上部を覆い被さるように走っている高速道路がやたら目につきました。
「日本工業倶楽部会館」:(1999.5.20)

東京駅の西側は丸の内地区といってかなり古いビルが立ち並んでいます。この会館も多分大正時代に建てられたもので赤レンガ造りの風格のある建物ですが、明年には取り壊して建て替える計画があるそうです。したがってこの絵も貴重な記録となる訳ですが、このビルの南にあった「丸ビル」も現在新しく建て替え工事が進められており、東京駅前丸の内側の風景は次第に変化することになりそうです。
「等々力渓谷・稚児大師さま」:(1999.5.25)

等々力渓谷は東京世田谷区多摩川支流の谷沢川の一部で、長さ1km程度の渓谷ですが都心に近いこともあって比較的人気があります。この「稚児大師」は弘法大師の幼児期を塑像にしたものです。この絵では表せなかったのですが、実物は彫像ながら利発そうな表情が現わされています。五月晴れの下で家族や中年のグループが訪れていました。ただしこの辺りはやぶ蚊の生息地らしく30分ばかりに間に相当やられました。
「等々力渓谷・宝珠閣にて」:(1999.5.25)

この「宝珠閣」はお抹茶を点ててくれます(もちろん有料)。この時も家族連れや中年のグループなど数人の客が居ました。ここは都会では珍しい閑静な一軒家で近くに不動滝が、またここからすぐ上に上って行くと「等々力不動」があり、こちらの方はやや名前が売れているようです。
「明治村・深緑の中の帝国ホテル」:(1999.5.29)

東京日比谷にある帝国ホテルの旧中央玄関だけがここに移設されています。この帝国ホテルは4年間の工事をへて大正12年(1923年)に完成したもので、皇居を正面にして中央玄関を配置した煉瓦を型枠とした鉄筋コンクリート造りです。明治村へは昭和60年に移築されたそうですが、この建物の特色がそのまま残され、格調の高い気品が感じられます。絵を描いた後中に入ったところ、2階部分の一画に2・30人の人たちが集まって何か祝賀パーティーらしきものが行われていたほか、玄関前では明治時代の洋服を着た女性を挟んで記念写真を撮るなど、これらが実在の施設であることの意義を改めて感じました。
「明治村・金沢監獄中央看守所」:(1999.5.29)

金沢監獄は明治40年(1907年)に建設されたそうで明治村へは昭和40年に移築され、この看守所は裏側の監房と一体になっています。この看守所は実は網走監獄にあったものだそうですが、木造桟瓦葺きで外壁も洋風であるため正面からは看守所という感じがしません。ただ屋根の上の見張り台がこの建物を象徴しています。
「明治村・内閣文庫と隅田川新大橋」:(1999.5.29)

内閣文庫(後方)は明治6年(1873年)に開設、同23年(1890年)内閣文庫に改称されて昭和年まで利用されていたそうです。明治村へは平成2年に移築されています。建物は本格的なルネッサンス様式で明治のレンガ・石造建築の典型といわれています。
隅田川新大橋(手前)は明治45年(1912年)東京日本橋浜町と深川安宅町間にかけられた全長180m の鉄橋で、鉄材は当時の日本では確保できずアメリカから輸入したものだそうです。大正12年(1923年)の関東大震災で他の鉄橋が破壊したのに、この新大橋のみが残って避難道路の役目を果たして多数の人命を救ったそうです。明治村へは昭和49年に移設されています。
「明治村・呉服座」:(1999.5.29)

この建物の呼び名は「ごふくざ」ではなくて「くれはざ」だそうです。これは芝居小屋で最初は現在の大阪府池田市に建てられて、その後明治20年代(1887〜1896)同市内で移設された江戸時代の伝統建築だそうです。もちろん芝居・落語・浪曲・漫才などが演じられましたが、特に尾崎行雄や幸徳秋水らが立憲政治や社会主義の演説会に使っており、当時の芝居小屋が大衆の遊び場・社交場であると同時に、マスコミの重要な役割も果たしていたとのことです。明治村へは昭和45年に移築されており、国の重要文化財にも指定されています。この絵を描いている間は「青い山脈」が上映され、妻もしばらくこれを楽しんでいました。