「梅雨過ぎて、石取祭まで」(1999.9.1掲載)

7月下旬に長い梅雨が明け、私たちは急に暑い季節に投げ込まれた感じでした。今年は全国的に例年に無い猛暑に見舞われ、東北・北海道地方でも冷房機器の売り切れという珍現象が見られたようです。
私のこのページはまだ梅雨入り前から梅雨明けまでのちょっと時期後れ的になっていますが、相変わらずあちこちで拾った題材を集めてみました。梅雨の晴れ間は木々や花々が陽光を受けて鮮やかさを競い、人々も真夏に向かうひとときを思い思いに過ごしております。
ところで長い間の念願がかなって三重県桑名市の「石取祭」を見る機会に恵まれたので、数枚の作品を仕上げました。ここに幾つかを掲載しましたので、有名な「やかましさ」は表現できませんですがご覧下さい。

「旧東京医学校(小石川」植物園)」:(1999.6.2)

小石川植物園は東大理学部の所属で、もとは江戸時代に薬草の栽培・採薬・薬の研究などを行っていた所で都心にあり、その面積は 16万m2に達するものです。数多くの樹木や花卉が植えられていますが、研究や試験が目的のためか公園内は必ずしも整備されているようには感じられませんでした。またここは関東大震災の避難場所となったそうで、その古い記念碑が残されています。この東京医学校の建物は東大医学部の全身で、壁のエンジ色が古い建物の特徴を表しています。
「竹のサックスを吹く外人」:(1999.6.11)

池袋駅前で見かけた1こまです。米国人らしき若い男性が手作りの竹製のサックスを実演販売していました。そばに置いてあった説明書によれば材料はハワイ産の竹材で、サックスの価格は確か1000円だったと思います。形は尺八に似ていますが音色は尺八のように渋い感じではなかったはずです。客は全くいなくて、やはり外人が1人だけ買って行きました。
「目白庭園にて」:(1999.6.11)

東京にはかなり多くの区立公園があり、この目白庭園も池袋駅の北西に位置した豊島区立の小公園で、もとは児童文学者鈴木三恵吉の旧居だそうです。回廊式日本庭園の形をとっており、小さいながらこのように岩を中心としたした滝がしつらえてあり、この絵にはありませんが池に築山や石垣が築かれています。周囲の緑に混じって遅咲きのつつじの朱色が印象的でした。ここは池袋駅からかなり離れた閑静な住宅街の一角で、時節柄来園者は少なかったですが、却って静かなたたずまいを感じることが出来ました。
「栗の花」:(1999.6.13)

散歩途中で見かけた栗の花を初めて描きました。よく見ると実になる部分は花の枝との付け根部分にあり、既に小さなイガが形成されています。オシベとメシベが近接した受精しやすいこの構造は成熟した栗の実からは想像できません。
「おにぎり」:(1999.6.23)

白昼の東京日比谷公園の、遠足か課外授業らしき小学生の昼食風景です。不思議にも最近の子供たちは一人一人がバラバラで弁当を食べることが多くなったように感じますが、このように何人かがグループを組んで楽しそうに食事している光景を見ると、自分達の子供時代が懐かしく思い出されます。
「松本城」:(1999.6.26)

急に思いついて妻と共に松本へ1泊2日のドライブをしました。松本へは10年以上も来ていませんが、幸い梅雨の中休みで中央自動車道からの山々の眺めは格別でした。
このお城は5層6階の天守閣、3階4層の小天守閣等からなり、現存する天守閣建築では我が国最古のものとして昭和36年国宝に指定されています。永正元年(1504年)長野一族島立貞永が築城して深志城と称し、その後天正10年(1582年)小笠原貞慶が城主となって改称し、以降松平・堀田・水野氏などが居城したそうです。手前の橋の朱色がくすんだ色のお城と対照的によく目立っています。週末でもあるため団体の観光客が多く、あちこちで城をバックにした写真を撮っていました。
「旧開智学校」:(1999.6.26)

明治9年(1876年)の建築で、我が国最古の洋風小学校建築として知られています。木造2階建ての桟瓦葺き、中央部にはこのように高塔のほか建物内部の構造や装飾などからなる、その特異な建築が明治初期の洋風文化を象徴するものとして、昭和36年国の重要文化財に指定されています。この建物は建築当初は市街地中央部を流れる女鳥羽川岸にあったものを昭和39年ここ(松本城北側)に移築されたそうです。
「オキザリス」:(1999.7.10)

妻が友人から頂いたもので、「カタバミ」の1種です。「カタバミ」の仲間は雑草であちこちで見かけますが、このように葉が紫というのは珍しいです。私の植物図鑑にも葉が緑色の「オキザリス」は載っていました。葉は直径2cm程度のハート型のもの3枚が対称的に一つの軸に付き、花はうす紫の可愛いものです。次々と花をつけていますが、今では「ヨトウムシ」のえさになって元気がいまいちです。
「アメリカフヨウ」:(1999.7.18)

この花は最近よく見かけますが、従来の「ヒマワリ」ほどではないものの、花の大きさからすると堂々たる花卉で遠くからでもよく目立ちます。大きい割合には清楚な印象を与える花でもありますが、全体の色のトーンが淡く感じられるせいであろうかと思います。
「休日の父子」:(1999.7.20)

岐阜・三重両県境にある「木曽3川公園」での光景です。二人の男の子が父親から食事を与えられていました。優しそうな若いお父さんと子供の食事風景には微笑ましさを感じた反面、自然にお母さんはどうしたのだろうという疑問をいだいたことも事実です。この日は「海の日」の休日でしたが雨が降ったりやんだりの天候でしたので、来園者が少なくこのような家族は特に印象に残ったわけです。
「桑名市・春日神社」:(1999.7.31)

三重県桑名市の中心的な氏神です。例年7月31日・8月1日にこのお宮さんの神事である「石取祭」が挙行されますが、私も初めててここにお参りしました。社殿はあまり大きくはないものの、上品な感じ?です。この絵を描いた午後6時頃、境内ではちょうどお祈りが始まったところでした。境内の周囲空は「石取祭」の太鼓と鉦(かね)の音がにぎわしく聞えてきました。
「桑名・春日神社正門」:(1999.7.31)

春日神社のこの門はまだ新しいようですが、非常に豪華な感じで社殿の控えめなたたずまいと対照的です。お寺の門の流れを汲んだ「かえるまた」形式も特徴です。普段は静かなこの界隈もこの「石取祭」の間だけは地元の人や見物客で大賑わいを見せています。「石取祭」の2日目の8月1日夜には全部の山車がここに集まってドンドンカンカンをやるので、この門の左右には見物のための階段状の桟敷が容易されています。
「桑名奇祭・石取祭(1)」:(1999.7.31)

桑名市の「石取祭」の山車は各町内会が保有しており、全部で30基以上もあるそうです。このお祭りは山車に積んだ直径1mばかりの太鼓1個と30cmくらいの鉦(かね)2〜3個をたたきながら市内を移動するもので、その喧しさは他に例を見ないほどです。私はここからあまり遠くない現在の職場に来てからの3年以上を経て初めて見ましたが、最初は耳を覆いたほどのものがだんだん慣れてきて結構楽しいものだと感じました。しかし山車の太鼓をたたく人は、その両側の鉦の音にさらされて長時間は持たないのではないかと、いらぬ心配もしました。そう言えば私たちが通勤で利用しているタクシーの運転手さんの中に相当賑やかな女性が居ますが、ことによったらこの「石取祭」の音(ね)を子守り歌代わりにして育ったのではないかとつまらぬ想像をしながら見たものです。
「桑名・石取祭(2)」:(1999.7.31)

山車の形は殆ど同じで後ろの部分に太鼓が載せてあり、前部には上段に上がる梯子がつけてあります。太鼓の上にはこのような天蓋がのせられ、山車の上部に町名などを書いた8〜10個の提灯が3段くらいに吊り下げられています。なお山車の中には「からくり人形」を持ったものもあり、山車全体は黒い漆塗りのようです。太鼓と鉦の叩き方にはあるリズムなどがあるようで、この祭のために1ヶ月以上も前から練習してきたとのことですが、子供たちでも適当にやっている様子を見ると余り技巧を要するものでは無さそうです。また山車が叩き出しを始める前に、メンバーが酒を酌み交わしたりして景気付けをしている光景もみられました。
「桑名・石取祭(3)」:(1999.7.31)

絵を描いている間に夜8時を過ぎてしまいました。この頃になるとあちこち単独移動していた山車がまとまって移動を始めます。この絵は2基の山車を描いたものですが、提灯が暗闇の中で動いている光景です。「石取祭」の歴史については全く無知ですが、このお祭りが地元の商業祭の一つで、これのために町内会や商店街から膨大な費用が支払われているとの事で、いつも利用しているタクシーの運転手さんによれば、中には金が払えなくて直前に夜逃げした商店主もたまにあったらしいとのことです。